黒松内町の歌才ブナ林は、北限のブナ林として昭和3年に国の天然記念物に指定されている。
北限のブナ林と行っても、人為的に植えられたブナは黒松内町以北でも生育しており、札幌の北大植物園でもブナの巨木が見られる。
歌才ブナ林の価値は、自生の北限であるということ、そして面積約92ha、推定樹齢220〜270年の豊かな天然樹林が、周辺が開墾し尽くされた中でそのまま残されているということだろう。
隣接の島牧村賀老高原にも広大なブナ林があるが、そこはまさに熊の住処のような山奥に位置している。
一方、歌才ブナ林は黒松内町市街地のすぐ近くに存在するのだ。
ブナは漢字で木偏に無と書くそうである。材木として全く役に立たない木であることから、ブナにしたら不本意であろうこんな漢字が当てられることになってしまった。
しかし、それが幸いしてこの地のブナ林が生き残ることができたのだろう。
天然記念物指定後も何度か伐採の動きがあったようだが、その度に地元の反対でそれを防いできたという町の人々の努力があったことも忘れてはならない。
材としては価値のないブナの木だが、最近はブナの保水力が見直されてきている。
ブナの木そのものの保水力が優れているほかに、ブナの育つ森は土壌の層も厚く、より多くの水分をその中に保って、天然のダムとして機能しているのである。
そんなことを頭に思い浮かべながら、歌才ブナ林の中を歩いてみよう。
ブナ林入り口にはトイレや休養施設が整備された駐車場があり、そこから道路を横断するとブナ林入り口の看板が立っている。
しかし、その入り口からしばらくは普通の雑木林が続いており、本当のブナ林は800m先になる。観光の途中でちょっと寄り道するような軽い気持ちでやってきた人は、そこでねを上げてしまうだろう。ハイヒールやサンダルで気軽に歩けるような場所ではない。
運動靴程度の用意はしておきたいところだ。
春先ならば、入り口から入ったすぐの湿地でミズバショウの群落が美しい花を咲かせている。そして、遊歩道沿いにはカタクリやエンレイソウなど春の花も咲いているので、ブナ林へ入るまでも結構楽しく歩くことができる。
軽く一山越える感じで歩いていくと歌才川にかかる丸太橋に到着し、いよいよここからがブナ林の始まりである。
川を渡ると丸太階段の設置された急な坂道が続く。
ルート上ではここが一番の難所だ。ここさえ登り切ってしまえば、後は適度なアップダウンがあるだけである。
息を切らせながらも周りを見ると、地衣類や苔に覆われた灰白色の樹皮の樹木が多くなったことに気がつくだろう。これがブナの木である。
ブナは樹皮が剥がれ落ちないので、このように地衣類や苔がつきやすいが、もう一つの理由として、ブナの樹形は水を集めるようにできているとのことで、その幹を伝って雨水が流れ落ちることも一因であるらしい。
このように幹を伝う雨水の流れを樹幹流というが、雨の日にブナ林の中を歩くとこの樹幹流に驚かされるとのことだ。
雨降りの時にはとてもブナ林散策なんて気持ちにはならないだろうが、こんな時こそブナ林の素晴らしさを実感できるチャンスかもしれない。
急な坂を登り切ると尾根筋の道となるが、この付近は「ブナの木台」と呼ばれ、ブナの巨木が目に付くようになってくる。
私がこのブナ林を歩いたのはブナが芽吹きはじめた頃だったが、その時期は笹を刈った遊歩道沿いに春の花が咲き乱れ、ブナよりもそちらの方に目が奪われるくらいに美しかった。
ブナの木台には直径が2mにも達するミズナラの巨木があるそうだが、そんな花に目が入っていたせいか、そのミズナラには気づかずじまいだった。
そこから沢を二つほど渡ると平坦な地形の場所に出てくる。これまでの、尾根や谷を縫うように続いていた遊歩道沿いの景色と違って、道の両側に広がるブナ林が清々しさを感じさせてくれる。
ここで遊歩道は行き止まりとなり、同じ道を引き返さなければならない。もう少し周遊できるような道になっていれば良いのだが、ちょっと残念である。
駐車場からここまで片道2.3km、ゆっくりと歩いて2時間ほどの行程だ。
私はここを3時間かけて歩いたが、ゆっくりと歩けば歩くほど色々な発見が多くなる。普通に歩いていれば、人の気配で逃げてしまっているようなシマリスや美しい鳥が、ゆっくりと歩いていると突然目の前に現れてくれた。
時間をかけてゆっくりと味わいたい歌才のブナ林である。
今回は新緑の時期だったが、夏の深い緑に覆われた時期、秋の紅葉の時期、そして雨の降り続く日、季節と時間を変えて何度も訪れたい森でもある。
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